左京 たたかいの軌跡
日本共産党京都左京地区委員会と左京区の府市会議員は、住民のみなさんとともに左京区内で様々な運動にとりくみ、成果をあげてきました。その一端をご紹介します。
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東山三十六峰に送電鉄塔がないわけ
気づいている人は少ないと思いますが、東山三十六峰には、電力会社のあの不粋な高圧送電線鉄塔は見当たらない。 1982年に電力需要増加のためと称して、鉄塔計画が関電から持ち込まれた。地元民は反対だったが、立ち会った自民党市議は関電寄りの態度で交渉が難航。業を煮やした町内会長らが「もはや共産党しかない」とタヤ市議に相談を持ち込みました。「送電ケーブルは地下に埋めるべき」と対案を出し、住民と共産党が協力した一年以上の粘り強い運動で要求が実現し、送電鉄塔は一本もありません。 地下ケーブルは、山科御陵→蹴上発電所→仁王門通→家政学園→冷泉浜通→川端通→荒神口変電所の間に埋設されています。
荒れ放題だったインクライン
インクラインは、春は桜、秋はもみじの観光スポットになっています。しかし、舟還の衰退もあり1948年(昭如23年)に休止されました。土木遺産として京都市文化財に指定される1983年までは荒れ政題でした。その運動は共産党の議員が南禅寺に話しをもちかけたのがきっかけでした。
「近代京都の基礎を作ったインクラインも、当時は荒れ放題。伏見墨染のインクラインは取り外され、24号線の道路にしてもうたんです。蹴上の方も1号線の道路にするという動きがあるのをいち早くキャッチし、えらいこっちゃ!こら南禅寺に何としても話をかけんならん、と思いました。
さっそく南弾寺総務部長・法皇寺住職の直山元貞さん(岡中のPTAで知り合い)に言うたら、びっくりしはって、一緒に取り組むことになったんです。「インクラインを復興する会」を作り会長になってもらいました。南禅寺一世帯の風致、景観文化遺産を守る運動は幅 広く共感を昨び、菊水、八千代、瓢亭などの有名料亭もふくめ、十数町内会、労組(府税事務所、市文化観光局、水道局)があつまり、546もの署名を集めました。市に請願書を提出したら、全会一政で通ったんです。インクラインは、今見るとおりトロッコの上に舟を乗せた形で残り、モーター、ワイヤー、巻き上げ機も動物園地下室の倉庫に大事に保管されています。」(三錦学区の新聞「大文字」1987年8月第57号「他谷物語4」より)
草ぼうぼうが桜の名所に~岡崎の疎水べり
動物園から川端通りまでの疎水べりに遊歩道があり、桜の名所になっています。このようになるまでには、住民と共産党のねばり強い運動があったのです。
1967年(昭和43年)頃、「川端年輪(老人)クラブの佐々木会長(当時)が『以前は疎水べりの桜の木が2~3本あって、その下にござを敷いて花見をしたもんや。今は草はぼうぼう、花見どころゃない。何とかしてほしい。疎水事務所に日参しやはったんやけど何にもしてくれんかつた』と他谷市会議員の所に来て、『他谷さん、力をかしてんか』と。
『よっしゃ、佐々木会長とワシと一緒になったらやれる』1968年(昭和44年)「疎水沿線を美しくする会」をつくりました。当時の疎水のへりには、釣り道具、喫茶、食堂、自動車修理、黛しボート、倉庫、廃品回収、桐箱材料置場などがありました。「美しくする会」の話し合いのなかで、こんなん立ち退いてもろて、きれいにしようという声があり、一方では住んでいる人の立場もあるということになりました。
そこで「美しくする会」が中心になって、水道局、立ち退き該当者、年輪クラブで折衝しました。それは大変難しく根気のいる時間のかかる問題でした。一年かかり、立ち退きについては完全保証で、円満解決。導水管の工事も無事終わりました。そして疎水べりに桜を植え、遊歩道を作り、道路側は生け垣にしました。
出来上がった疎水ぞいの名前をつけることになり、川端から東大路までが「疎水の小道」、田辺橋(疎水と鴨川の合流点)に佐々木会長の字で碑を建てました。東大路通からインクラインまでを「六勝寺の小道」。この名前は、昔、この辺に法勝寺、円勝寺、成勝寺など「~勝寺」という6つのお寺があったのを記念して皆で決め、広道橋(動物園の南西)の所に碑を建てました。(三錦学区の新聞「大文字」1987年8月第57号より)
哲学の道の疎水はドブ川だった
昭和40年代、「哲学の道」ぞいの疎水はドブ川でした。地元の神社の宮司さんをはじめ地元の方と共産党の運動でホタル舞う桜の名所となっています。「大文字」(三錦地域の新聞)の1988年1月(第62号)、2月(第63号)にその顛末が「他谷岩佐物語」として掲載されています。
他谷「わしが議員に当選してまもなく、疎水分線をつぶして道路にしようという動きがあった。疎水分線というのは、今の哲学の道ぞいの疎水で、松ヶ崎浄水場と御所に送水するために造られた南から北へ流れる人工河川や。当時はひどいドブ川で、家庭排水はジャンジャン入ってくる、魚もホタルも住めん状態やったわ。その汚いドブ川が道路になるならけっこうや、という賛成論があった。けど、大豊神社の小林さんや草葉さんらと相談して、「由緒ある疎水を守り、きれいにさせる運動を起こそう」ということになったんや。
翌昭和43年(1968年)、水道局から一本入っている導水パイプをもう一本増やすという相談があった。その新しいパイプは、若王子神社を西へ入って、鹿ヶ谷通りを北へあがり、銀閣寺交差点へ通す案やった。皆で10回以上も集まり地元の意見をまとめた。それは「新しいパイプは、鹿ヶ谷通りではなく、疎水分線に沿うて入れてほしい。その工事の時、疎水の幅を1メートル狭くして、消防自動車も通れん道路幅を広くしてほしい」というのやった。三錦小学校で町内会長も皆よって水道局と交渉して地元の要望通り決まり、昭和45年(1970年)着工した。
次は、道の名前をどうするか、ということやった。以前から「思索の道」いうのがあって、法然院の前の道や大豊神社お旅所、若王子神社と続く道を、大学の先生がよう通ったので言われとったんやろ。新しい疎水ぞいの道にええ名前をつけようと10人ばかりよって考えたんや。「疎水分線小道」「思索の道」その他色々あって、収拾がつかん。そこで無記名投票したんや。そしだら「哲学の道」が2票、あとは1票ずつばらばらやった。ドイツにも力ナダのトロント大学にも「哲学の道」いうのがあり、「思索の道」という昔の呼び方は自然消滅や」
その後「哲学の道保勝会」が結成され、毎年清掃・花見などを行っています。
東一条の角はとんがっていたはず?
吉田幼稚園・四錦小・京大生が行きかう東一条は事故多発地帯でした。それというのも、東一条の北東角・京大本部の敷地が出っ張っていてとても見通しが悪いことが大きな要因でした。
住民は有吉市議に京大の敷地を削って見通しの良い交差点にしてほしい、との要望を持ち込みました。京大敷地の交差点の角切りを求めての署名運動そして京大への要望。また京都市議会には請願を提出し採択。粘り強い運動で実現し「事故多発地帯」の汚名を返上しました。
大文字山にゴルフ場計画!?
1989年(平成1年)8月11日、共産党京都市会議員団は、大文字山にゴルフ場を造る計画があることをつかみ発表しました。
ある地元の方は「新聞の朝刊を見てわが目を疑った」と言います。業者と市役所の間では一年前から話が進んでいたことを、地元住民はもちろん市民は、マスコミで初めて知らされたわけです。その時期は、丁度バブル期で業者は土地を買いあさり「開発」のやり放題でした。
北白川地域では8月12日、「大文字山ゴルフ場建設に反対する会」が、三錦地域では「大文字山ゴルフ場問題を考える会」が発足しま した。
開発による豪雨や大地震での土砂崩れ、河川の氾濫の危険性、自然環境や健康への悪影響などの問題点を指摘し、市民合意なしに「建設計画」を許可しないことを京都市長に要請しました。
12月市議会で山本正志市会議員は「住民の不安は大きい、計画の撤回も含めた弾力的対応ができる内に、地元説明会の開催を業者に指導せよ」と要求。京都市は「法をクリアしているものであれば開発を認めざるをえない」と認める方向をとっていました。
北白川・三錦の「会」がシンポジウム、調査ハイキング、街頭署名活動など精力的に行い、わずか三力月で一万数干署名が集まり、マスコミも大きく取りあげ、「大文字山にゴルフ場を作らせるな」の声が全国に広がり、12月ついに業者が計画を断念して、大文字山の自然が守られました。
この運動が東山の自然を守っただけでなく、その後の東山・北山・西山の三山でのゴルフ場は全面禁止となり、大きな成果につながりました。
世界遺産銀閣寺を守れ~半鐘山開発やめよ
半鐘山は銀閣寺道から北東に入った閑静な住宅地にある一千坪ほどの里山で、東山三六峰の一つ、西方山の通称です。
開発の話が持ち上がったのが、1998年3月、同地を購入した業者が半鐘山を造成し、白川に橋を架けて既存道路につなげ13区画の分譲住宅を建設する、との計画。地元住民の「緑の保全」を求める請願は、5424筆の署名とともに、1999年3月、京都市議会に提出され、全会派一致で採択されました。しかし2001年、京都府は河川占有、京都市は開発許可をおろしました。同年8月、開発業者が住民の反対を押し切り着工しました。
住民は、「半鐘山と北白川を守る会」を結成して、署名活動や京都市開発審査会に審査請求書の提出、開発許可取消し訴訟を京都地裁に提訴しました。
また半鐘山は世界遺産・銀閣寺に近接するバッファゾーン(緩衝地帯)を破壊する行為で世界遺産条約違反でもあるとユネスコ世界遺産センターへ働きかけもし、世界遺産センター所長パンダリン氏は日本政府に「半鐘山は歴史的山地である東山から降りてくる丘陵部の先端部である。世界遺産センターとしては、開発許可がだされた事実に驚愕せざるをえない。」との書簡を出しました。2003年12月に京都地裁が工事差し止めの仮処分を決定し、工事は中断。裁判は2004年から2005年にかけて審理が行われ、2005年夏以降は、住民と業者の和解協議がねばり強く続けられ、2006年12月和解が成立し、当初の計画は取り下げられました。この運動には、当初から光永府会議員、山本市会議員が参加していました。
集会所名目、実は葬儀場~下鴨

葬儀場建設予定地はマンションに(2014年10月)

2005年1月にセレマは下鴨(府大前バス停前の旧民家)に用地を取得。境界確定に来た業者に、住民の方が「ここに何ができるのですか」と尋ねたら、「いい物ができますよ」との事。住民は何一つ知らされませんでした。3月セレマは住民には何の説明もせず、「葬儀場」を「集会所」との用途で建築確認をとりました。
4月隣接住民が登記簿でセレマが取得したことを知り、住民側からの質問書の回答で初めて葬儀場建設計画が明らかになりました。西本町内会ではこの葬儀場問題に取り組むことを確認、「下鴨の交通と環境を守る会」が発足。住民は、京都市に「セレマが隣接・近隣の地域住民に十分な説明、完全な合意がなされるまでは計画・建設を中止するよう指導」を求めた請願を出し、5月の市議会で全会一致採択されました。
同時に住民集会、街頭デモ、署名活動など行い、文化的価値の高い旧民家保存、葬儀場計画の撤回を求める申し合わせを近隣町内会、下鴨繁栄会、葵社協で行い、住民間の連携が生まれました。又この運動は、テレビでも放映されました。6月初め、セレマは葬儀場計 画に反対する者とは話し合いはしないと明言、着工を通告してきました。住民の抗議と京都市の指導を受け、セレマは話し合いに応じましたが、「建築計画は合法」「明日からでも工事に入る」との内容を繰り返しました。
6月29日、住民側は建築審査会に、葬儀場計画そのものの、避難通路は条例違反の計画であると追加申し立てました。市は、その日に不適合通知を出し、セレマは12月に建築申請を取り下げました。
「京都市は葬儀場に関する指導要綱の制定作業を進めていることを7月の建設消防委員会で、明らかにしました。この指導要綱は、①事前手続きとして、建築計画着手前に京都市との事前協議をおこなうこと、②近隣住民等への説明範囲と周知期間を拡大すること、③近隣住民等と十分協議し、協議事項について協定を締結すること、などを義務け、さらに設置・管理運営にかかわる配慮事項として、①住環境・交通環境・景観等との調和に配慮すること、②隣地境界線から葬儀場の外壁までの間に十分な距離を取り、高木で緑化す ること、③住環境に配慮した管理運営を行うことなどを事業者に義務付ける事を8月制定にむけ作業中です。」(「こんにちは山本正志です」2005年8月号より)
その後、上高野でも葬儀場問題が起き、京都市は、葬祭場を開業する際の指導要綱を改正、強化しました。規制外だった床面積100㎡以下の小規模葬祭場にも対象とすることなどを加えました。
この運動は、住民の早い立ち上がりと、多彩な運動、議会への働きかけなどで、行政が葬祭場を開業する際の指導要綱を制定するなど運動の成果が実りました。
モヒカン刈りになったが~岩倉一条山
岩倉の「岩倉五山」の一つである一条山は、業者の違法開発により「モヒカン山」として京乱開発、景観破壊の象徴として全国に名をはせてきた。京都市は1981年12月に山の中央部をそのまま残して周囲を開発するという開発許可(旧許可)を与えた。ところが、業者は1982年の暮れ頃から、開発条件を無視して、山を全部削り取ってしまおうとし、1983年2月に市が工事中止命令を出して工事が中止された時点では、山は「モヒカン刈り」の状態になってしまっていた。
1983年3月、市議会普通予算特別委員会での日本共産党の追及に、市は「原状回復するよう指導したい。応じない時は告発も考える」と答弁。
1983年5月、5月議会での日本共産党の質問に、市は「是正指導おこなっている」「強力な措置を講じる」と答弁。日本共産党は1986~91 年の本会議で11 回の質問をおこなう。
1989年12月、地元住民らが許可取消の審査請求。1990年6月の三宅市議の本会議質問では「1983年に『市会建設委員会に提出された是正計画にもとづき強力に原状回復という形で指導する』とう答弁が、この年5月の開発審査会では『一応考える案として市会に提出したにすぎない』と業者側にたって乱開発の現状を容認する態度に後退している。議会を冒涜してまで業者の便宜をはかろうとする姿勢は許せない」
1992年3月、京都市開発審査会は、開発許可を取消すという、市民常識にかなった画期的な裁決を下した。その要旨は、是正のための開発許可は、(1)できるだけ山の形を残す、(2)できるだけ緑を残す、(3)業者に不当な利益を与えない(クリーンハンド)ことが必要であり、京都市の山の全面開発を認める再開発許可は、権限逸脱・濫用で違法とする明快なもので、あった。
一条山は小ぶりになってしまったが、かろうじて守られたのである。
花背峠残土投棄問題~今も記憶に残る大運動
1983年、ある業者が、狭い鞍馬街道にダンプカー約一万台を走らせ残土を花背峠に投棄しました。この時、鞍馬住民は、屋根瓦がずり落ち、沿道の人家には粉塵が入り込み、振動・騒音・排気ガス・交通渋滞など被害をこうむりました。通学路、お年寄りの歩く狭い生活道路をダンプが走る。もうこんな“残土投棄はお断り"だというのが沿道住民すべての気持ちでした。
ところが、別の業者に花背峠の同じ場所に残土投棄する許可(10トン車7万台)を京都府がおろしました。共産党は、地元の人たちと幾度となく現地調査を行い、府議会で「急勾配の深い谷に残土を埋め立てる危険性、下流の谷川はヘドロで汚染され、直下の百井青少年キャンプ村の飲料水は使用不能の状態」であることを指摘し、府理事者の責任を追及しました。
地元では「花背峠残土投棄問題対策会議」をつくり運動の輪を広げ、新たな残土投棄を中止する請願署名に取り組み ました。署名は、鞍馬・市原・別所・花背・広河原の自治会やPTA、消防団、体育振興会、老人会、さらに北区柊野自治会、滋賀県側の自治会も参加する大運動になり1万3千を超える署名が集まりました。
「対策会議」は府庁へ行き、各党派に紹介議員仁なるように依頼。共産党、社会党はすぐ承諾。自民・公明・新政は「相談する」と即答せず請願〆切りに間に合わず、結局、共産・社会の紹介で提出することになりました。
びっくりする事態が起きました。請願〆切り日の早朝に公明党は地元の知り合いを回り29名の署名で「請願書」を提出。内容は、残土中止を求めた「対策会議」の主旨とは違うものでした。その後、29名の内13名が「残土投棄反対というから中身を確かめず署名をしてしまった。みんなにすまない」と請願を取り消すという異例の事態がおきました。議会は、1万3千人の請願を否決し16人の請願を自民・公明・新政の賛成で採択。地元住民の顧いも党利党略で踏みにじる公明党の姿でした。
その後、大運動が大きく世論を動かし残土投棄はストップさせました。
残土投棄で公園?~大見総合公園計画
1979年、京都市は、過疎対策を名目に大原大見町の120haに240億円を投入し、公共工事から出る残土を10年問、同町の平地部分を深さ20メートルにわたって埋め、スポーツの総合公園をつくると発表。
共産党は5回の現地調査と大原自治会や関係住民との懇談をふまえ、故郷を10年以上にわたる残土投棄の場にはさせない、大原街道を ダンプ街道にさせない(計画では1日往復2千台)、自然を生かした過疎対策こそ住民の顧いなどの見解を発表。
琵琶湖水源の一つでもあることから、大津市葛川地区自治会、漁業共同組合、森林組合、また環境保全の問題で京大理学部教授をはじめ、学者、研究者とも協力し「大見総合公園計画」反対の運動をすすめ、京都市の当初計画を白紙撤回させました。
根本から問われた市のゴミ行政~市原野ゴミ焼却場
1991年5月、京都市は、バブル景気にのった右肩上がりのごみの量の増加と北清掃工場の建て替えを理由に、市原野に総工費720億円をかけて日量900トン(当初計画)の焼却能力を持つ清掃工場の建設計画を発表しました。
この計画は、京都市のごみ行政の根本が問われました。それは、ごみの分別・リサイクルによる減量努力を二の次にし、工場から排出されるダイオキシンをはじめとする有害物質を含む排ガス問題を考慮しない「全量焼却主義」にたった時代錯誤的なものでした。
市原野では、自治連合会に「ごみ問題対策特別委員会」が設置され、ゴミの減量運動や大気観測や学習を積み重ね、道理ある提案と運動を行ってきました。しかし、京都市は、1997年1月に強行着工しました。
地元有志で「市原野ごみ裁判をすすめる会」をつくり建設工事の差止めを求めて提訴しました。裁判の中で植田京大教 授は市原野のごみ焼却場について、「京都市がごみの減量を少なくとも京都市自身の計画通りにやれば、わずかなトン数オーバーするだけ(たった4年間)で、広域化で十分対応できるはず。そのために新たな焼却場を多額の税金を使って建てるのは無駄ではないか」と述べ計画の杜撰(ずさん)さを指摘。
工場は2001年から稼動しています。共産党ば、計画発表と同時に、いち早く議員、地区委員会、市原野支部と連携をとり反対運動に全力をあげました。
さらにその後、京都市が発注したごみ焼却施般「東北部クリーンセンター」建設入札で、工事代金が大手メーカー5社の談合によって不当につり上げられたとして、京都地裁は川崎重工業に約11億4千万円の返還を命じました。判決理由で水上敏裁判長は「損害賠償情求権を行使すべき義務を負いながら、違法に怠っている」と、京都市長の対応を厳しく批判しました。
1972年音羽川大水害
音羽川は修学院を流れる高野川の支流で、一乗寺の北東境・比叡山南東麓の諸流が集まり、音羽谷となり、修学院離宮の南を過ぎ、北山通・松ケ崎橋の北で高野川左岸に注ぐ川です。音羽谷は修学説離宮の裏山から比叡山頂にかけて広がる流域で、風化の進んだ花崗岩からなる非常に災害の起こりやすいとされた地域です。
1972年9月16日台風20号は京都市に大雨をもたらし、修学院石掛町の音羽川の砂防堤が決壊、下流では鉄砲水による 土砂が押し守せ、死者1名、負傷者4名、全半壊家屋9戸、浸水家屋400戸あまりの被害を出しました。
修学院に住んでいた共産党の吉村府会議員(当時)の家を拠点に、連日、多くの共産党員や民青同盟員が救援にかけつけました。スコップを手にして被災した家に行き、床まで盛り上げられた土砂を運び出したり、泥の山と化した道路を歩けるようにするため、ひざまで泥につかりながら復出活動に全力をあげました。当時京大生だった梅木府会議員も学 生救援縁として活動しました。
共産党は、被災者の会と協力し「二度と災害の起きない音羽川の河川改修を」と議会内外で運動し、20億円の改修工事を実現しました。